エネルギーに満ち溢れた宮崎駿。
なんと82歳。本当ですか。
こんなにみずみずしい作品ができるなんてすごすぎる。純粋で、透き通るような物語。
何より、「生きたい」という前向きな気持ちが感じられて嬉しかった。
ポニョのときから心配であった。異世界に行って、そのまま帰ってこなかったのだ。「あちらの世界」に浸食されて、「こちらの世界」を捨てるという、常識的な「行って帰る」物語の型(話型)から離れるという離れ業であった。さらには、「風立ちぬ」のラストは煉獄。死後の世界なのだ。もう、宮崎駿の精神は「死後の世界」に飛んで行ってしまったのかと思っていた。だが、異世界から帰ってきた。こちらに帰ってくる物語を書いてくれた。彼は生きたいのだ。老成せず、あきらめず、あがいてくれるのだ。こんな老人がいてくれて嬉しいじゃないか。
宮崎駿さんの最新作が観れるなんて、もうないと思っていたから。なんて幸せなことなんでしょう。奇跡と言ってもよい。奇跡の公開。本当にありがとう。
公開当日、子供を寝かしつけ、あとは妻に任せてレイトショーを見に行きました。妻、ありがとう。
文学作品であるということ
さて、構造を中心に、まだあまりレビューされていないところを深堀りしていこうと思います。シンプルな冒険活劇だったらよかったのですが、あまりに文学作品だったんですね。だとしたら、こっちは得意分野なので、少し説明できるかなと。
一回しか見ていないので、言葉とかは適当になってしまいます。また、文化的な小ネタはわかりません。しかし、文学的なテーマや構造はざっくり読み解けたので、解説していこうと思います。
全体のモチーフとしては、不思議の国のアリスにゲド戦記に、日本神話に、魔笛に、成長物語(ビルドゥングスロマン)が乗っかる。
その中でも、構造を理解するのに最も役に立つのが、「ユング精神分析」である。今回は特に、村上春樹的小説に近い。だからこそ、ユングについて理解しておかないと、まったく何がしたいのかわからないのである。そして、神話の構造に近いものでもある。
村上春樹的な神話の構造
・主人公 → 世界に行く → 成長する → 帰ってくる
この構造が世界中の神話に普遍的に存在する構造らしい。この神話的構造を学んだジョージルーカスが、これを下敷きにスターウォーズは使っているのは有名な話。
そしてこの神話の構造を現代の村上春樹がどうアレンジしているかというとこんな感じ。
・主人公 → 内面世界に行く → 成長する → 帰ってくる
外に行くよりも、自分の内面を掘りに行くのです。水平方向ではなく、垂直に、下へ下へと降りていきます。それは井戸をモチーフに使うことが有名である。
この内面に向かうストーリー性が現代の神話と言える。
では、なぜ人は内面に向かう必要があるのか?
ユングの精神分析をざっくりと
それはユングの精神分析を理解する必要がある。ユングは、フロイトの考えを受け継ぎ、心には意識と無意識の層があるとした。「意識」はわれわれが知覚できているものを指す。そして、「無意識」とは心の奥底にある、通常の状態ではたどり着けない深い部分を指す。心の大半は無意識でできているとし、私たちが知覚できているのは表面のほんの一部、意識の部分であるとした。意識は、理性で抑えることができていて、ある程度コントロールできる。でも、ときどき不可解な行動をとってしまったり、制御不可能になってしまうときがある。それは「無意識」のせいであるというのである。「無意識」は、人間が動物だった時からもっている部分である。そこは言語化できない暴力性や残虐性、衝動や悪意などのカオスになっている。
ただ、いつもは意識と無意識の間にはフタがしてある。そのフタは、大きなストレスがあったときなどに開いてしまう。開かれたら、幻覚や幻聴となって意識を苦しめてしまう。統合失調症というのは、この無意識のフタが開き続けてしまい、妄想などが止まらなくなることを指すという考え方なのだ。
だったら、「無意識」なんて厄介なものは、われわれの敵なのだろうか。
いや、そうではない。その世界は、われわれの精神の「根っこ」の部分だ。本質でもある。無視してはいけない。自分の知らない暴力性や、悪意、そういうカオスを理解してやることも必要だという。
でも、フタを開けたら幻覚・幻聴で怖いではないか?
そのためには精神を鍛えて無意識の世界に落ちていくことが重要である。それを「瞑想」と呼ぶ。ユングはよく瞑想をした。瞑想して深い内面世界に落ちていき、自分の核の部分を突き止めようとした。それは、自我をかけた大冒険である。
さあ、ここまででも、意識の世界の側から見れば、かなりオカルト的に聞こえるものだ。世界中の宗教がやっている瞑想というのは、基本的にはこの内面の深いところにたどり着くことを目標としていると、ユングは考えた。そこに精神科学からアプローチした人である。
そして、ここからさらにオカルトになるが、内面世界の奥は、他人の精神と繋がっているというのだ。世界中の人の精神は繋がっているとする。しかし、意識のレベルではわからない。深い無意識の部分で相互に影響しあっているということ。
この精神分析に、冒険を加えると、「自分の内面に向けて旅立つ」村上春樹作品ができあがるのである。
基本的にこの構造で考えると、「君たちはどう生きるか」の構造は理解できる。さて、ここまでが前提。
この先、完全ネタバレです。お気を付けください。
〇主人公の真人=サギ男である
・主人公 → ストレス過多 → 無意識の暴走(サギ男の誕生) →内面の無意識の世界へ → 内面の無意識の世界でつながった夏子を救いに → 成長 → 帰ってくる
というのが大まかな流れである。とすると入り口として重要なファクターであるサギ男。このサギ男は、主人公の分身であると考えられる。
主人公をイケメンでまっすぐな表の面とすると、サギ男は醜くて嘘つきな裏の面である。主人公は、実は嘘つきで弱い部分をもっている。頭の傷が、実は卑怯さの象徴なのである。見逃してはいけない決定的なポイントである。主人公の強さも弱さもコインの表と裏であるから、一体である。
だが、弱い自分なんて認めたくない。だからお互いに敵だと思ってしまう。自分自身なのに。なぜ、主人公とサギ男が同一人物で裏表であるかというのは、様々なところから読み解けるので分析していきたい。
〇サギ男が主人公の裏人格である5つの理由
①自傷における傷があり、不完全な存在になるところ。
後述するが主人公の名は「真人」。真の人である。左右対称で意味的にも完璧な呪術的意味をもつ。そこに、自分自身が傷ものにしてしまうことで、意識という理の世界から転げ落ち、異界につながってしまう。
また、それに対比して、「サギ男」も、自分の風切り羽を矢に使われて、頭部(青サギのクチバシ)に傷がつき、飛べない不完全な姿になる。こじつけかもしれないが、自分の力で自分を傷つけてしまったという点では、広い意味での自傷と言えるかもしれない。とにかく、傷ができることで本来の力を失う二人である。
②「似ている」という発言。サギ男と主人公に対するキリコさんの発言。
③ 同族嫌悪の側面。お互いに嫌いあっている点。
④ 主人公が自分の頭に石を傷つけることがきっかけで、サギ男が言葉をもち、敵になり始めるところ。
主人公の真人は、「真の人」であり、完全を表している。左右対称であり、完璧な名前である。(宮崎駿は『千と千尋の神隠し』でも、名前に呪術的なトリックを埋め込んでいた)
名前からも、もともとの性格もとてもまっすぐであるところが読み解ける。母の病院が火事になったときも動揺しながら礼儀正しい姿が描かれる。それでいて必死に母を想う姿が描かれる。彼は、基本的には礼儀正しいまっすぐな人間だ。
だが、転校した小学校において彼は田舎の子どもたちと衝突し、殴られる。そこでプライドが許さなかったのか、自分を許せなかったのか、道に落ちていた石を拾い、自分の頭に叩きつけ、血まみれになる。この行為の細かい動機は謎である。初見では、弱い自分を責めるためかと思った。しかし、そうではないことが最後に判明する。彼がのちに言うように、自分で石をたたきつけたことには「悪意」があったという。ということは卑怯な何かが動機にあったと考えらえる。「頭を石で打つことにより、騒ぎを大きくして、いじめた奴らに親から仕返しをしてもらう」もしくは、「学校に行きたくない」の二択ではないだろうか。あるいは、そのすべてか。ただ、騒ぎが大きくなってしまったので、「転んだだけ」と言って逃げる。これはまっすぐ生きてきた真人にとって初めての大きな卑劣さ、そして弱さを隠しもってしまったことになる。初めての自分の弱さ、卑怯さ、情けなさ。その弱さを外部に結実し、形をもったものが「サギ男」と言える。
なぜそう言い切れるかといえば、卑怯の象徴である頭の傷ができると、それを責めるように「サギ男」は言葉を発するように変化する。魔力を持ち始めるのである。やましい気持ちを吸い取るように、サギ男は形を持ち、言葉を語り始め、主人公を責めるのである。
これは大きなストレスを感じた人間が、オルターエゴ(もう一つの人格)を生み出す過程に似ている。自分の罪の意識が生み出したサギ男は、自分の代わりに自分の弱さを責めてくれる。そのおかげで、主人公の純粋な精神は逆に保たれるのである。
⑤現実と異世界の裏表の対応
主人公の発言によれば、異世界と現実は対応しているようである。異世界では形が変わるようである。キリコさんは、現実では老婆、異世界では若々しい漁師、というように。そのように裏表の対応で考えるとするならば、現実では主人公の真人、異世界ではサギ男、と考えられるのではないだろうか。
描ききれないので詳しくは次回書こうと思います。
〇ゲド戦記との共通点(影と殺しあうこと)
だから、この話の構造は「ゲド戦記」に似ている。特に、ゲド戦記は1だ。自分の分身である影と戦う物語。影は自分を殺しにやってくるが、影を敵としてみなさず、自分の一部と認めたときにゲドと影は一体化し、救われる。
「君たちはどう生きるか」はジブリアニメの冒険活劇であるため、サギ男はポップで面白い。だが、真人を殺そうとする怖い存在でもある。そして、醜く弱く情けなく嘘をつく。ゲド戦記における影ほど格好よくはない。でもそれが、かえってリアルな気がするのだ。自分の光の部分が強いほど、影は格好悪くなってもいいじゃないか。
だが、それを受け入れたとき、人は大人になれるのである。
なので、異世界で主人公の真人はサギ男と協力しあう。お互いの危機を救いあい、最後は「友達」と言える存在になる。それがもう一つテーマにも通じるところであるが、理想の世界ではなく、現実を生きることなのである。醜い自分も現実なのだ。そう知ることが大人になることである。
次回は、異世界の構造について書きたいと思います。疲れたのでこの辺でいったん終了
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